『ミスト』ネタバレ感想: 私がこの結末を衝撃的だとは思わなかった理由

物語をどう終わらせるか。結末次第で作品の印象はがらりと変わります。ハッピーエンドにせよバッドエンドにせよ、結末が優れていれば、駄作が凡作へ、凡作が佳作へ昇華されます。

映画『ミスト』は、結末が「衝撃的」だと公開当時に話題になり、今でもその結末が語り草になっている作品です賛否が分かれる結末のため、作品の評価もまた割れています。「トラウマ映画」だと評されることあるけれど、果たして本当に衝撃的なのでしょうか。

あらすじ

のどかな田舎町の湖畔に暮らすドレイトン一家。激しい嵐が襲った翌日、湖の向こう岸には異様な深い霧(ミスト)が立ち込めていた父親のデヴィッドは、霧が気掛かりになりながらも、息子とスーパーマーケットへ買い出しに出掛ける。嵐明けでにぎわう店内で買い物をしていると、瞬く間に街は深い霧に包まれて――。

ミセス・カーモディはなぜ2発撃ちこまれたのか

街が霧に包まれて「さあこれから何が起こるのか」と期待が高まるも、蓋を開けれてみれば、どこかで見たようなモンスターが出てきて肩透かしを食らわされました。

スーパーマーケットに籠城している人たちが争い始める展開も、「モンスターより人間の方が醜く恐ろしい」という定番で新鮮さはありません。

狂信的なカーモディ(うざい!)が撃ち殺されるくだりは見どころです。アメリカの映画館では、ここで拍手が起こることすらあったのだとか。

プロダクションノートによると、オリーが2発撃ちこんだのは、1発目で観客を歓迎させ、2発目で観客を我に返らせて自分の攻撃性に気がつかせる意図とのことたしかにスカッと溜飲が下がった反面、私刑を歓迎した自分の心情にはドキッとさせられました。

こういうふうにまんまと監督の手の平の上で踊らされるのは、(悔しいけど)楽しい。

そのシーンを除けば「よくあるホラー映画」です。でも『ミスト』のキャッチコピーは「驚愕のラスト15分」です。結末次第で印象はガラッと変わるもの。最後まで期待して見届けると……。

驚愕のラスト15分?

『ミスト』が迎える結末は、主人公のデヴィッドとその息子ビリーが、スーパーマーケットに居合わせた他の3人と共に店を車で逃げ出すものの、ガス欠になるまで走っても霧の外には出られず、生存を諦めて銃で心中するというもの。

銃弾が4発しかなかったので、最後に残ったデヴィッドは車の外に出てモンスターに殺されようとしたそのとき、霧は嘘のように晴れていき、軍の救助隊が現れる生存者4人を、しかも息子を射殺してしまったデヴィッドが打ちひしがれる姿で物語は幕を閉じます。

絶望ではなく失望

この結末に私はすっかり白けました。なぜなら、主人公たちの行く末にはまだ希望があると感じていたから。

山のように巨大なモンスターの登場で世界の終末を予感する一方、それがこちらに見向きもせずに素通りしたのを見て、生存の道を見いだせる可能性も感じました。

なにせ愛する我が子を手に掛けるのです! それはもう本当にどうしようもない際の、最後の最後の最後の手段でなければいけません。

主人公が息子を殺した時点で「諦めるにはまだ早いよ!」とあきれてしまいました。霧が晴れても「言わんこっちゃない」としか思えません。絶望ではなく、主人公に対する失望を覚えました。

スティーヴン・キングの原作小説とは違うこの結末は、監督のフランク・ダラボンが考案したそうです。監督はインタビューで「観客に問いを残そうとした」と語っているけれど、主人公に自分を重ね合わせられなければ問いは生まれません。

息子を殺した主人公が浅はかに思えた私には、なんの問いも残りませんでした。

もしも主人公の心中に共感していたら、強烈な問いが生まれたことでしょう。そして二度と忘れられないトラウマ映画になっていました。

というわけで

冒頭に「結末が優れていれば物語全体の出来栄えを底上げできる」という旨のことを書きました。けれどそれは、結末に至る筋道を踏んでこその話。筋道がなければカタルシスは得られません。

ミセス・カーモディの呪縛、モンスターには殺されたくないという息子の願い、妻の死、人知を超えた巨大なモンスター……。結末に至る筋道はあったものの、「子殺し」という究極の選択を下すまでとは思えませんでした。

最後に。ダラボン監督は『ミスト』について「観客それぞれの解釈は全部正しい」と述べています。本稿もまた、まったくもって個人的な感想の一つに過ぎません。あなたがまるで違う解釈をしたとしても、それを私は肯定します。

【追記】我が子を守り抜いた母のまなざしが問うもの

映画の楽しみ方として私が標ぼうしているのは、不満な点があったなら、「○○だからつまらない」ではなく、「なぜ○○なのか」を考えるということそうすると、最初は見えていなかった物語の一面が浮かび上がってきて、作品の捉え方が変わることがあります。

『ミスト』なら、「なぜ、不完全な絶望にしたのか」を考えます。それが意図されたものとして掘り下げるのです。子供を撃ち殺した主人公に失望するあまり、これを怠っていました。

そこで、あらためてこの「クライマックスにおける不完全な絶望」を考えます。

『ミスト』を考察する上でポイントになるのが「エピローグに登場する母子」です。霧が晴れて茫然とする主人公の眼前を通り過ぎる車両に乗っているこの母親は、物語序盤でスーパーマーケットに居合わせた一人です。

彼女は家に残してきた子供を救出しに帰りたくて、協力者を募ったものの誰も賛同せず、一人で霧の中へ立ち向かっていきました。生きては帰れないだろうと居合わせた誰もが思っていた彼女が無事に子供を助け出していたのです。

彼女は主人子に冷たいまなざしを向けました。たしかに主人公も彼女を見離しました。しかしそれは自己保身からではなく、一緒にいた我が子を危険に晒させないための選択です。責められる筋合いはありません。

理解に苦しむ演出だと思っていました。しかし、「不完全な絶望」を前提に映画を思い返してふと気がつきました。あのまなざしが責めていたのは、彼女の協力を断ったことではなく、主人公が子供を殺したことだったのではないでしょうか。

(もちろん、彼女は主人公にその後なにが起きたのかは知らないので、あくまでダラボン監督の演出意図としてです)

そう考えると、映画として一気に座りがよくなります。我が子を命がけで守ることを選択した親が、我が子を守ることを放棄した親を蔑んでいる。というシンプルで真っ当な構図です。

ダラボン監督もまた、主人公の選択に否定的だということです。だとすると、絶望が不完全なのはダラボン監督の手落ちではなく、意図的だということもなります。なぜなら、完璧な絶望は子殺しの免罪符になりかねないからです。

スーパーマーケットを抜け出して車に乗ってからは静けさがありました。霧が晴れる予兆はあったのです。希望はまだあったと、あれは愚かな選択だったと、息子の願いを諦めの言い訳にしたと、主人公は死ぬまで後悔しつづけることでしょう。

もしも絶望が完璧なものだったなら、子殺しを自分の中で正当化して、罪と折り合いをつけながら生きていけます。

子殺しを否定する以上は、絶望が不完全なのは必然だったのです。

ダラボン監督は、ミセス・カーモディを撃ち殺したオリーに共感した観客を2発目の銃弾で我に返らせた演出と同じく、主人公の子殺しに共感した観客を霧を晴れさせて我に返らせかったのでしょう。演出の反復は映画の基本的な手法であることを忘れていました。

本文では、絶望が不完全であるゆえに、結末に至る筋道が足りていないとしました。ところが結末に至る筋道が足りないからこそ、絶望が不完全であるからこそ、すべてが終わったあとに本当の絶望が訪れていたのです。

ダラボン監督が『ミスト』について「観客それぞれの解釈は全部正しい」と語ったのは、主人公視点で絶望する人も、子供を守り抜いた母親視点で主人公を蔑む人も、双方想定していたからではないしょうか。

配給会社が用意した「驚愕のラスト15分」というコピーに私は惑わされていたようです。エピローグで物語がひっくり返ったと錯誤していました。実際は最初から最後まで物語は地つづきだったのです。(了)

第一印象で覚えた不満点を違う視点からみることで、肯定的に捉えなおすことができました。監督の言う「観客それぞれの解釈」どころか、自分自身の解釈も変わるからやっぱり映画って面白い。

長文におつきあいいただき、ありがとうございました。あなたの映画生活が充実したものでありますように……。

タイトル:
『ミスト』ネタバレ感想: 私がこの結末を衝撃的だとは思わなかった理由
カテゴリ:
映画
公開日:
2014年04月12日
更新日:
2019年05月09日

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